2012年10月26日金曜日

グロい技術

かつては世界を席巻した国産ゲームソフトが欧米勢に水をあけられて久しいが、その鍵はグロにあると思っている。

まだ現役ゲーマーでもあるファミコン世代のオッサンが過去を振り返ってみると、グロい表現は技術力の証でもあったように思う。

個人的な感想ではあるが、これまで最もグラフィックで驚いたのはアーケードのスプラッターハウスだった。あのおどろおどろしい巨大なキャラクター達が動くこと自体、当時としては新鮮だったのだ。その後、似ても似つかないファミコン版にがっかりしたのは言うまでもないが、今にして思えば、高性能な基板とそれを活かすソフトを作る技術をもってして、はじめて実現できたことだったのだろう。

それからずっとゲーム機は進化を続けてきたわけだが、皮肉なことに表現力を高めた結果、犯罪責任の安直な転嫁先として目を付けられてしまった。そして、技術的な障壁より社会的圧力の方がグロの妨げとなり、グロという技術の研鑽の動機を失ってしまったことこそが、欧米勢に後れを取った大きな原因の1つではなかろうか。

ふと気が付いた。分野は違うものの、駄目な環境に文句を言いながらも、結局は甘んじてただ腐っている今の自分の姿は、出来るはずのことを封じられたゲーム屋さん達と似ているのではないか。 そして今まさに、自分は退化しているのではないだろうか、と。

芽生えたこの恐怖感は、大事にした方が良さそうな気がする。

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